FC2ブログ

記事一覧

図書紹介(石平『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃げられたのか――「脱中華」の日本思想史』)

石平(せき・へい)著『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃げられたのか――「脱中華」の日本思想史』(PHP新書、2018年)を読了しました。石平氏は1962年に中国の四川省で生まれ、北京大学の哲学部を卒業後、1988年に来日して95年に神戸大学大学院文化学研究科博士課程を単位取得満期退学、日本の民間研究機関に勤務したり拓殖大学客員教授を務めながら、2002年に『なぜ中国人は日本人を憎むのか』(PHP研究所)を刊行して以来、日中・中国問題を中心とした評論活動を行っている人です。2007年に日本に帰化、2014年の『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』(PHP新書)で山本七平賞を受賞しました。1989年の天安門事件の衝撃等で政治的自由のない母国に絶望して日本人になった人ですから中国への批判は鋭く、『正論』等の右派の雑誌によく寄稿しているので私は前からある程度彼の文章を読んでいました。しかし中国論はともかく、彼の日本思想史論なんて信用できるの?と思わないでもなかったのですが、本書は、ジャーナリスト上がりの多くの評論家と違って、北京大学で哲学を専攻し神戸大学の博士課程で日本文化を(?)研究した人によるものですから、期待以上に学問的かつ興味深い作品でした。
 本書の中心テーマは、題にもあるように、「なぜ日本は、中国文明の圧倒的な影響力に呪縛されず、独自の文明たりえたのか」ということであり、それを、日本の代表的な思想家たちは江戸期の前まではほとんど仏教の世界の人間であるのに、江戸期ではほとんど儒学者であるという、「奇妙な現象」がなぜ生じたのかという疑問を糸口にして論じています。儒教は5世紀から、仏教は6世紀から日本に伝来して、儒教思想は「聖徳太子の憲法17条」や「大宝律令」・「養老律令」に取り込まれ、大和朝廷の官僚教育内容に採用されましたが、政治理念の構築においては仏教思想が中心に据えられ、仏教が事実上の「国教」とされました。「それは、普遍性のある仏教という世界宗教のなかに身を置くことによって、中国文明ならびに中華王朝の権威を相対化し、中国と対等な外交関係を確立していく」(54ページ)一方、「七世紀の唐帝国の出現とその対外侵略によって現実味を帯びた外来の脅威に対応し、国防体制を強化するために中国から律令制を導入して、一時避難的に中国流の中央集権国家を作り上げようとした」(74ページ)ためでした。「しかし十世紀、この脅威がなくなると、律令制の基礎である『公地公民』の土地制度の消滅に始まり、社会・政治体制としての律令制も消え去った」(同)のだそうです。
 そして仏教も、奈良時代までの「南都六宗」は上流階級のみを帰依させて満足していましたが、平安時代に現れた空海と最澄は、誰でも成仏できる、誰でも仏門に帰依できるという新しい教えを説いて仏教を大衆化・簡素化しました。さらに法然・親鸞・日蓮らによって「一切衆生」の救済思想が普及されましたが、それは「本覚思想」、つまり人間には誰でも生まれながら「仏性」が備わっているという考えに基づいていました。著者によれば、「本覚思想の誕生をもって、日本の仏教はもはやインドの仏教でもなければ中国の仏教でもなくなって、見事なまでに日本的な仏教となったのである。」(108ページ)しかも日本では、大和朝廷以来「神祇令」により神道を国家の祭祀制度の中心に据えており、仏教との矛盾を「本地垂迹説」、すなわち日本の神々は如来や菩薩の化身であるという信仰によって解消していました。著者は、こうした「考え方の出現は、日本の思想史上、あるいは世界の思想史上において、まさに異なった宗教間の融合と共存の可能性を示した画期的な出来事だと言えるだろう」(122ページ)と、高く評価しています。
 こうして民衆化された日本の仏教は、徐々に民衆を団結させて世俗の権力と対峙するほどの政治勢力を擁するようになりました。そして信長・秀吉・家康らを一向一揆で苦しめたのですが、家康は天下を統一すると全国に「寺請制度(檀家制度)」を整えたので、「江戸時代の仏教と寺院は、民衆の『戸籍管理機構』として体制を補完する政治的役割を担うと同時に、いわゆる『葬式仏教』として」(136ページ)社会的役割を果たすようになりました。他方で家康は、儒学者の林羅山を起用して法令の制定、外交文章の起草、典礼の調査・整備を行わせ、家光は羅山を政治顧問とし、綱吉は羅山の孫を大学頭、すなわち最高教育官に任命したので、儒学は江戸幕府の「官学」的地位を確立しました。さらに「寛政異学の禁」では、儒学以外の学問の講義と研究が禁止されたくらいです。この時代の儒学は朱子学で、それは著者によれば「空想の『天理』を振りかざして、実現不可能な『治国平天下』のために人々の人間性を殺し、窒息するような厳格な管理社会をつくっていくことを本領とする、峻烈な原理主義思想」(152ページ)でした。それが幕府の推奨と武士層にとっての魅力(平和継続によって兵士としての役割を失った彼らに、使命感と生きがいを与えた)、そして壮大な理論体系の威信によって、江戸時代の前期には日本の思想界で一世を風靡したのです。とはいえ、科挙を導入しなかった日本では、儒学も中国や朝鮮ほど広範な社会層に普及することはありませんでした。
 12世紀の朱熹が起こした朱子学は、実は儒教創始者たちの考えとは大きくことなるものであり、伊藤仁斎はそれに気づいて『論語』を再評価し、続いて荻生徂徠も孔子以前の先王たちの理想的統治を模範としました。そして彼らが確立した「古学」の方法論を用い、賀茂真淵と本居宣長は、『万葉集』・『源氏物語』・『古事記』等を研究して、日本の古代にこそ理想的「古道」社会があったのに、儒教等の中国思想の悪影響で国が乱れてしまったとする「国学」を確立したのです。しかし、日本が幕末に西洋からの脅威に直面すると、会沢正志斎や佐久間象山は守るべき「国体」や「東洋道徳」の基礎として儒教的価値観を推奨し、それが尊王攘夷運動のイデオロギーとなっていきました。そして明治維新を起こした武士たちは、やがて「教育勅語」にそうした価値観を盛り込み、本来武士等エリート層のイデオロギーであったものを国民全員にとっての「人の道」として唱え始めたのです。著者は最後に、「明治日本が『脱中華』という点において逆行したことの思想的意味とは何か、そしてそれが、近代以降の日本の国家と国民精神の形成にどのような影響を及ぼしたのか。このことは日本思想史において、今後、さらに探求していくべき大きな課題の一つであろう」(249ページ)と述べていますが、その通りですね。続編に期待しましょう。(2018.5.31)
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

非公開コメント